抹茶が品薄】例年より在庫が少なくなっています。7月発売予定の商品は、6月に予約注文の受付開始予定です。

ログインすると、一回の小売注文合計1,500円(税込)以上で国内は送料無料!<海外にも配送可!90カ国以上に発送実績があります>

プロフェッショナルのための日本茶ガイド

  • Teatopia, Wazuka - Yunomi.life

    和束町ティートピア

    こんにちは! 和束町の美しい茶畑でカマキリがくつろいでいるのを見つけられますか?はい、今日は京都府の主要な茶産地をご紹介する回です。今回は、京都府の南端に位置する心温まる町、和束町にスポットライトを当てます。 他の地域の記事を見る 雄大な茶畑の風景 素敵な和束町を初めて訪れたのは2019年の夏(コロナ禍以前)、日本の非営利団体NICEが主催する茶業、有機農業、日本文化に関する国際ボランティアワークキャンプに参加するためでした。日本の田舎の風景は、山々や田んぼ、伝統的な家屋といった自然の美しさで知られています。しかし、瓦屋根の集落の中に茶畑が広がる壮大で芸術的な景観に、これほどまでに畏敬の念を抱いたのは初めてでした。後に和束の茶農家の方から、この景色は800年以上にわたるこの地域の茶生産の歩みを示しており、日本の緑茶が発祥の鎌倉時代(1199-1334)と並行していることを知りました。おそらく、人の目にとても美しく見える理由の一つは、和束の茶樹が年間を通して複数回(日本中の他の多くの茶園よりも多く!)刈り取られ、手入れされているためでしょう。このように茶畑を区画することで、茶農家は茶の木を丁寧に育て、茶樹への日照量を最適化することができます。さらに、宇治や宇治田原など、日本有数の銘茶の産地として知られる周辺地域と同様に、和束町は気候、湿度、霧、寒暖の差など、お茶作りに適した地理的条件を備えています。2015年には、和束町は日本遺産に登録されました。チャノキは常緑樹であるため、一年を通して素晴らしい景色が楽しめることが想像できます。 石寺茶畑は、おそらく和束で最も有名な茶畑でしょう。この象徴的な景観は、様々な茶製品に利用されてきました。春には、この美しい茶畑のすぐそばで桜並木を楽しむことができます。 原山:すべてが始まった円形茶畑 和束町では、文字通りどこにでも茶畑があり、思いもよらない場所にも茶畑があります。非常に急な斜面でも開墾(森林を伐採して農地を作る作業)を行った和束町の茶農家の人々の努力に感謝することでしょう。茶畑の手伝いをする機会があれば、農場のトラックの荷台に乗り、急な坂を上り、ヘアピンカーブを曲がって茶畑に向かうのは、とても思い出深く、冒険的なものになるでしょう。和束町のユニークな茶畑の一つが原山の茶畑で、 「円型茶畑」としてよく知られています。実際、この茶畑の対称的な美しさ、自然と人の手の優雅なダンスに魅了されないのは難しいことです。原山は、和束町で最初に茶の木が植えられた場所でもあると言われています。では、お茶の種はどこから来たのでしょうか?これらは、日本の茶業の開祖である明恵上人から、海住山寺の僧侶である慈真に贈られたものです(この地域の茶の歴史を少しおさらいしたい方は、 宇治と宇治田原の記事をご覧ください)。自然に囲まれているので、ハイキングコースとしても楽しめます。町では電動自転車もレンタルできます。私はあまり好きではないのですが、電動自転車を使うとより快適に走れると感じました。つまり、電動自転車が坂を上るのを助けてくれるので、それほど苦労することはないということです! 原山の茶畑の左右対称の美しさは、時として人を催眠状態に陥れる。写真は岸田萌氏による。 今日の和束茶 現在、和束町は日本の茶の生産量のわずか2%ほどしか占めていません(茶の生産量の約45%は京都府)。しかし、和束茶(和束町産のお茶)は、特に旨味が豊かな高品質のお茶として知られています。伝統的に、この地域は煎茶(和束町の北西約10kmにある宇治田原町で開発された)で非常に有名であり、そのため、茶農家は以前は煎茶のみを生産していました。しかし、約15年前、和束町で抹茶の生産がほとんど行われていなかった時期に、多くの和束町の茶農家が碾茶も生産し始めました。例えば、上島製茶園の個人経営の碾茶工場は比較的最近の2016年に設立されました。現在、彼の茶の生産量は、煎茶が30%、碾茶/抹茶が70%を占めています。これは、日本だけでなく和束町の茶業の状況を反映しています。つまり、抹茶の需要が高まっているということです。 和束町は全国的に見るとお茶の生産量は多くない(例えば、お茶の主要産地である静岡県や鹿児島県と比べると)のですが、京都府内では茶畑の面積、茶農家戸数、お茶の生産量において第1位を誇ります。 表1. 京都府における茶種別荒茶生産量(単位:トン). 統計資料:京都府茶業振興局, 2013.   表2. 京都府のお茶ランキング。 2013年京都府茶業協会統計より。  和束茶カフェ この素敵な小さなカフェは、和束茶の豊富な品揃えを堪能できる最高の場所です!上島茶園の上島家は、このカフェを経営する家族の一つです。上島さんへのインタビューでは、和束茶カフェの歴史についてお話を伺うことができ、大変興味深く思いました。 上島さん: 「昨年はコロナ禍で和束茶カフェにとって異例の一年でしたが、今では売り上げが4万円ほどの黒字になりました。創業メンバー4人でこのカフェを始めようと決めた当初とは全く違います。全く売れない日もありました。レジの引き出しがびくともせず、“チーン”という音もしない! レジが錆びるのを防ぐために、100円ドリンクを自分で買わなければならない時もありました…。実は、そんな暗い時期が3~4年ほど続きました。お客さんが来てくれればまだよかったのですが、最初の頃は他の農家さんからバカにされたんです。『こんなところで誰がお茶を買いに来るんだ?』って。すごく疑心暗鬼だったんですよ」 「6年目くらいから軌道に乗り始め、10年目には本格的に売れるようになりました。それは社会の変化があったからです。地域振興や文化振興活動の中に、茶畑の観光やお茶を飲むことが含まれるようになりました。SNSやマーケティングを通して、和束町外からも人が来るようになりました。観光バスの力も借りられました。京阪バスの社長さんが『京の茶』ルートを担当されているので、京都南部を通るルートを開拓してほしいとお願いしたんです」 和束茶カフェのお茶のセレクション。座ってお茶を楽しみながら、デザートもお選びいただけるスペースもあります!写真は和束茶カフェより。 心温まる街、心温まる人々...

  • Get to Know Your Tea Farmer: Noriyasu Uejima - Yunomi.life

    茶農家を知ろう:上島則康さん

    京都府和束町に行ったことがあるなら、 5代目茶農家の上島則康さんの名前を聞いたことがあるかもしれません。爽緑園(上島茶園)を営む上島さんです。上島さん一家は、 和束茶カフェも経営しています。そこは、おそらく和束茶の中でも最も種類豊富な和束茶が揃った、居心地の良い空間です。私が上島さんのことを初めて知ったのは、和束町の茶畑で夏の草取りを手伝っていた時のことでした。上島さんは私たちの近くの茶畑を見下ろしていて、和束町の人たちからこう聞きました。 「そういえば、萌えちゃん、あそこにいる男性はここのお茶農家なんだよ!」 その時は何を話しているのかよく分かりませんでした。でも、上島さんの姿を見て、その存在感を感じたことは今でも覚えています。面識はなくても、和束の茶農家の方々が上島さんを尊敬しているのを感じました。今回のインタビューを通して、上島さんのお茶への情熱、和束への思い、そして勤勉さ、それら全てが、和束の産地直送茶の世界で重要な存在である理由をさらに深く知ることができました。また、上島さんのユーモアのセンス、和束なまり、話し方にも触れることができて嬉しかったです。皆さんにも上島さんについて知っていただき、彼の「おいしいお茶」をより深く味わっていただければ幸いです。 お茶の道へ:上島さんが茶農家になろうと最初に感じた直感 上島さんは22歳からお茶の道を歩み始めました。しかし、幼い頃から「お茶農家になりたい」という強い思いを抱いていたそうです。お茶農家になるまでの、ユーモラスなエピソードをご紹介します! 上島さん:中学1年生、14歳くらいの頃、父が肝臓を患って3~4ヶ月ほど入院したことがありました。父が入院していて家族で茶葉を収穫できないので、弟と二人で何かしなきゃ!って思って。でも、母が手伝ってくれても、ほとんど何もできなかったんです。近所の茶農家さんが手伝ってくれたんです。でも、やっぱり自分の茶畑の収穫が終わってから(みんな自分の畑を優先して)手伝ってくれるので、うちの茶畑はどんどん遅れていって…。弟も私も、この状況に耐えられなかったんです。 さて、これはちょっと面白い話ですが、私たちは「大八車」と呼ばれるものを作りました。  伝統的な手押し車のようなものでしょうか。弟と一緒に、茶葉を収穫するために使う予定だった手押し車に2組のハサミを載せて、興奮しながら言いました。 「よし!お茶摘みに行こう!!」 でも、手押し車を持って茶畑に向かって歩いていた時、不気味な黒いカラスが私たちに向かって「クラ、クラ」と鳴き始めたんです。私たちはまだ幼かったので、カラスには本当に怖かったんです。結局、茶葉は収穫できませんでした(笑)。でも、あの茶畑を守りたいという強い思いだけは覚えています。父が畑に行けないから、何かしてあげたい、という気持ちです。  写真はピーター・ロイドによるものです。 上島さんのお父様は、お茶の季節に一度だけ不在になってしまいました。兄との手押し車事件は失敗に終わりましたが、この事件の後、上島さんは15歳の時、お茶の道に進む第一歩を踏み出しました。4年制の農業高校に進学し、お茶を専門に学ぶことを決意したのです。お茶は楽しくて面白いと感じていました。そして、先代たちの努力によって茶畑が拡大してきたことから、家業の茶園を守りたいという思いが強く、自分もその道を歩みたいと強く願っていました。 オーダーメイドのお茶を淹れる喜び 昭和52年(1977年4月):上島さんは22歳で家業の茶園を手伝い、お茶の世界に入りました。まだ事業を継ぐ前でしたが、お客様に直接お茶を販売するようになった経緯を聞かせてくれました。 上島さん:私は5代目の茶農家ですが、4代目(つまり父)までは、みんなお茶を競りや市場に持ち込むだけで、卸売りしかしていませんでした。だから、お茶の道に進んでから、 「なぜ顧客に直接販売できないのか?」 農協にお茶を持って行って売ってもらうだけでは、あまり面白くないと思ったんです。当時はまだ、お茶の仕事を自分でやれる権限があまりなかったんです。でも、父にお茶を分けてもらって、自分で売ってみないかと頼みました。お茶を小さな袋に入れて売ってみたら、父は「好きにやればいい」と言ってくれました。それで、今で言うフリーマーケットみたいなところで、自分で作ったお茶を売ってみることにしたんです。奈良の元興寺に行ったのが、たぶん初めての試みだったと思います。でも、最初は全然売れなくて… 正直に言うと、私はとにかくお茶が好きでした。だから先祖、父の跡を継ごうと決めたんです。そして、父を助けたいとも思っていました。当時はそういう思いが強くありました。もちろん、全てが楽だったわけではありません。小さなティーバッグを一人で売っていた頃は、全てが順調だったわけではありません。でも、私のお茶を買ってくれたある女性が「美味しいお茶です」と言ってくれたことが、私の救いになりました。それからお茶との対話が始まりました。お客様がどんなお茶を飲みたいか尋ねると、彼らは私に教えてくれました。そして、自分でお茶を売ることで、お客様の声を聞き、お客様が喜ぶお茶を作ることができると気づいたんです。そこに喜びを見出したのです。 お客様との対話や直接販売の経験から、上島さんは今も常にお客様のことを第一に考えながらお茶を淹れています。オーダーメイドのお茶作り、無農薬・無化学肥料、国内で手に入る資源を使ったお茶作り、そして環境に配慮したお茶作りを楽しんでいます。今後の茶業とビジネスのビジョンを伺うと、上島さんは「すべてのお茶を、お茶を求める人々の手に直接届けたい」とおっしゃいました。お客様が求めるお茶を淹れること以上に、上島さんにとって大切なことは何もないのです。 茶農家としての勤勉さ 萌:上島さんの仕事ぶりから感じるのは、勤勉さですね。お父様とあなたはお茶の仕事で、おそらく過重労働も含めて、数え切れないほどの時間を働いてこられたそうですね。病気になったり、仕事で燃え尽きてしまったりした時期はありましたか? 上島さん:そうですね、茶畑で体を壊したり、病気になったりしたことはないんです。ただ、一度だけ胃潰瘍になったことがあって、胃に3つも穴が開いてしまったんです…。 30代前半だったと思います。驚かれるかもしれませんが、鉄道ってご存知ですか?踏切がありますよね?線路の下にブロックがあるんですが、その下のブロックを交換する作業をしていました。これは一年中できる仕事ではなくて、暖かい季節はあまり仕事がないんです。でも11月から3月くらいまでは需要が高いんです。それで、どういうことかというと…その日の終電が終わると、この作業員は「よし、始めよう!」ってことで、線路の釘を全部外して、下のレールとブロックを外すんです。それからブロックを元に戻して、線路を敷いて、また釘を打ち込む。それが10年くらい続いた夜のアルバイトでした。 では、なぜそんな仕事をしていたのか。それは父のおかげと言ってもいいかもしれません。和束町で茶農家として生き残るには、茶畑を増やすことが必要でした。それが我が家の最大の目標でした。しかし、私たちは20代ほど続く大代茶農家の分家だったので、もともと土地があまりありませんでした。もっとお茶を淹れるには茶畑が必要で、そのためには土地を買うか借りるしかありませんでした。だから、私たちが成功するには、何か他の人とは違うことをしなくてはならない、と父はよく言っていました。 高校生の頃、父も同じことをしていました。他の茶農家のように朝から働くのではなく、日中に茶畑で働き、夕食を食べてお風呂に入り、それから鉄道工事に行く準備をしていました。線路には午前0時前に到着します。そして、鉄道工事は午前4時~5時頃に終わり、7時~8時頃に帰宅して寝て、正午(正午)に起きて茶畑へ行き、半日働く…これを繰り返していました。こうして生計を立て、貯金してまた茶畑を買うことができたのです。これが私たちの家系です。鉄道工事が比較的近い時期には、私も実家に帰ることができました。しかし、仕事が忙しい時期には、四国、高松、高知、徳島など、日本各地を転々としていました。この時期は仕事が忙しく、お腹に3つの穴が開いたんです(笑)。 実は、それは現場での出来事でした。ある夜、夜勤中に私は思いました。 「うわ、本当に気分が悪い」と言いながら、その場で文字通り倒れてしまいました。翌日、地元の病院に行ってレントゲンを撮ったら、すぐに大きな病院に送られました。そして、病院に着くと、3つの穴が開いていることがわかりました。その週は比較的安静に過ごし、休養しました。 鉄道の夜間作業はご存知の通り、とても寒かったんです。特に冬場は零下になるんです。皆が寝ている間に働き、少しずつ前進していると信じていました。父もそう考えていました。もっと楽な道があるかもしれないけれど、私たちは不器用なので、それが私たちの戦略だったんです(笑)。だから私は諦めずに続け、それが30代の私の仕事の日々のルーティンでした。ええ、確かにみんなに笑われたり、からかわれたりしました。「奥さんがいるのに夜は家にいないんだ」なんて言われたりもしました(笑)。...