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日本の茶文化について

  • Craftsmanship and evolution of the Japanese tea caddy

    日本の茶筒の職人技と進化

    茶筒は何百年もの間日本茶にとって重要なものであり、偉大な武将織田信長(1534-1582)が茶道具の美的価値を等級付けして以来、特別な威信を帯びてきました。初花、楢柴、新田と呼ばれる「天下三大茶筒」を含む茶筒は、非常に重要な文化的、政治的価値を持ち、茶筒はかつて戦場で慈悲を乞う贈り物として使われていました。偉大な武将秀吉だけが同時に三大茶筒を所有するほどの力を持っていました。これらは肩突きと呼ばれる、口が狭く肩が広い、小さくて非常に繊細な陶器の茶筒で、実際には戦国時代(1467-1615)に中国からもたらされました。 日本の伝統的な茶道(抹茶用)で用いられる茶筒は、一般的に「茶器」と呼ばれます。日本の伝統的な茶道を見たことのある方、あるいは参加したことがある方は、抹茶の粉が上品な小さな容器に入っていることに気づいたかもしれません。茶筒は、形や材質、そしてお茶を点てる種類( 薄茶または濃茶)によって分類されます。棗(なつめ)または薄茶器(うすちゃくい)と呼ばれる茶筒は、主に薄茶を点てる際に使用する抹茶を保管・提供するために使用されます。一方、濃茶を点てる際に抹茶の粉を保管・提供する陶器の器は「茶入れ」と呼ばれます。茶道には、茶筒を慎重に選び、提供する芸術性があります。茶筒は、その場で用いられる他の抹茶道具との調和を考えて選ばれるため、お客様が特に注目するアイテムの一つです。 夏目の写真: PhotoDesignTokyoより。 陶器の茶筒作りは、武将の時代以降も確実に受け継がれ、日本の陶工たちはその後も、そして現代に至るまで、精巧な肩突きを作り続けています。しかし、 江戸時代(1603~1868年)になると、特に貴族以外の人々の間で煎茶が人気を博し始めました。そこで日本の職人たちは、小さな陶器の茶筒作りから、主に桜や竹などの樹皮を加工し、煎茶に適した大型の茶筒を作るようになりました。 日本の茶筒工芸における第三波とも言えるものは、明治維新(1868年~)直後、イギリスから輸入されたブリキのおかげで始まりました。この新しい素材のおかげで、非常にぴったりとフィットする滑らかな円筒形の茶筒が、より多くの人々に行き渡るようになりました。同じ頃、お茶は庶民の間でもより好まれるようになり、お茶を保管するための容器(つまり、かつて使用されていた大きな茶壷に代わる容器)の需要が生まれました。 茶筒(ちゃつぼ)と呼ばれる、古くから伝わる錫の茶筒。こうした歴史的背景が、手作りの錫製茶筒の誕生につながりました。実は、この時代に八木清助氏(後述)のような職人たちが、革新的な試みを試みることに成功したのです。※なお、本記事では、より現代的な茶筒を「茶筒」と呼んでいますが、「茶筒」とは茶葉を保管するための箱、缶、瓶など、あらゆる容器を指します。 開化堂の優雅で気密性の高い茶筒への130の工程 開化堂は京都市に拠点を置く茶筒メーカーで、140年以上もの間、代々受け継がれてきた優美な手仕事の茶筒で知られています。職人の八木清助氏(初代)は、茶筒と呼ばれる新しいタイプの錫製茶筒を初めて日本人に提供しました。 日本の伝統工芸技術にも注目すべきは、まさにこの点でしょう。開化堂の伝統的な茶筒は、 130もの細心の注意を要する工程を経て作られており、今もなおその工程が受け継がれています。これらの工程は、特に日本のような湿度の高い環境で茶葉を保管する際に不可欠な気密性を保つために不可欠です。例えば、茶筒の材料を削り出す工程では、毎回同じ力加減で切ることが非常に重要です。わずかなズレでも最終的な仕上がりに影響してしまうからです。蓋と本体の直径を揃えるため、職人はそれぞれのパーツに番号を記して削り出します。歪みや反りを修正した後、丸める工程が始まります。錫板を真円にするために、「三本巻き」と呼ばれる特殊な道具が用いられます。そして、巻き上げた胴体と蓋を「八双(はっそう)」と呼ばれる専用の切り抜き道具で切り抜きます。開化堂では10人ほどの職人が分担して作業していますが、全工程を一人でこなせるのは5代目と現6代目の職人だけです。 開化堂の茶筒は、蓋が本体とぴったり合うと、まるで夕日のようにゆっくりと沈み込むように、ぴったりと収まり、ピタッと閉まるとよく言われます…。私はまだ開化堂の茶筒に触れたことはありませんが、丁寧に作られた茶筒は、上質な茶葉の鮮度と香りをしっかりと保ってくれることでしょう。開化堂の現六代目、八木隆弘さんは、たとえ失敗しても、常に心の支えである茶筒があるという信念のもと、常に新しいことに挑戦しています。その新たな試みの一つが、2016年に京都市電の洋館を改装したカフェ「 開化堂カフェ」をオープンしたことです。八木さんは、このカフェで茶筒や開化堂の未来だけに焦点を当てているわけではありません。彼の意図は、人々の日常生活に適用できる日本の伝統的な職人技を顧客に体験してもらうことです。 この投稿をInstagramで見る Kaikado 開化堂(@kaikadoteacaddy)がシェアした投稿 今日の多様化した茶筒 現代の茶筒は、種類もサイズも価格も実に多様です。開化堂のような現代の日本の茶筒の定番はブリキ製です。ブリキは鉄の表面に錫をコーティングしたもので、軽くて錆びにくいのが特徴です。金属製の茶筒には、真鍮、アルミニウム、ステンレス、銅、銀などの薄い金属が使われます。 煎茶道では錫製の茶筒が最も優れていると言われています。 日本で目にする茶筒には、陶器や木で作られたものもあります。陶器の茶筒は、陶工がろくろで挽き、窯で焼き上げます。小さな花瓶のような形をしており、底には渦巻き模様が施されています。ブリキの茶筒とは対照的に、その外観は不完全で侘び寂びのスタイルです。木製の茶筒もまた、轆轤を使って中身をくり抜いて作られる、伝統工芸の独特な形です。自然な木目を残したものや、漆で仕上げたものなどがあります。茶筒には、桜、楢、欅など、さまざまな種類の木材が使用されています。 秋田県を拠点とする藤木伝四郎さんは、樺細工を専門に手がける会社です。この会社は開化堂よりも少し前(1851年)に樺細工の問屋として創業し、その後、6代目当主の藤木幸一さんによって樺細工の製造工房へと転換しました。Yunomiで取り扱っている桜皮茶筒(下の写真)も非常に美しく、その精巧な職人技は称賛に値します。また、藤木さんは2009年からデザイナーの山田嘉一郎さんと共同で、都会のマンション暮らしにも合う現代的な茶筒の開発に取り組んできました。そこで生まれたのが、桜皮に加え、桜、メープル、クルミなどの木材を使った茶筒「和筒」シリーズです。 Sachiko さんは Yunomi で樺細工の芸術についてより詳しく書いています。このタイプの茶筒や工芸全般に興味があるなら、彼女の投稿が興味深いかもしれません。 お茶と茶筒の現代的用途を超えて 今日、日本の茶筒は茶葉の保存に使われていますが、その用途はより多様化しています。意外に思われるかもしれませんが、茶筒は唐辛子、生豆、パスタ、ハーブなど、乾燥食品の保存にも適しています。もちろんタッパーウェアで密封することも可能ですが、素材の性質上、光は透過しやすいです。そのため、茶筒は光に当たらずにしっかりと密閉できるため、メイソンジャーと同様に優れた保存容器として機能します。ただし、注意すべき欠点は、中身をマスキングテープでラベル付けするか、中身を覚えておく必要があることです。現代の茶筒は、本来の茶葉の保存用途として高く評価されていますが、茶筒と日本の伝統工芸の進化と変遷を見るのは刺激的です。 最後に、Yunomiスタッフの茶筒の使用状況について行った非公式な調査で、少々残念ではあるものの、意外ではない発見(笑)を皆さんにお伝えしたいと思います。私たちは10名という少人数のグループで、無作為抽出ではないため、もちろんこの調査を日本人全体に一般化することはできません。しかし、全体的に見ると、スタッフの半数以上が自宅に茶筒を持っていないようです。他のスタッフは複数持っています。私の家では、抹茶用(茶筒を中に巻き込んだ状態!)、ほうじ茶と寒茶用にそれぞれ1つずつ、そして豆茶用の茶筒がもう1つあります。Yunomiの創設者であるイアン・チュン氏も自宅に茶筒を持っていますが、彼はお茶をオリジナルの茶筒に入れて保存することを好んでおり、これは日本人の一般的な習慣だと思います。彼は、来客時に食卓に出す茶筒があると便利だとおっしゃっていました。伝統的、あるいは高品質な茶筒があれば、会話が弾んだり、茶の間(茶の空間と雰囲気)を感じさせたりするかもしれません。興味深いことに、茶筒は日本人の大多数にとって日常生活ではあまり使われないにもかかわらず、贈り物として贈られ、また贈られることが今でも続いています。これは、茶筒が格式、文化的、そして政治的な価値を持つという歴史的ルーツに由来しているのではないかと考えさせられます。...

  • History behind the Japanese side-handled kyusu

    日本の横柄急須の歴史

    日本の急須「 急須」に詳しい方は、他の多くの急須のように持ち手が後ろではなく、90度横に付いていることに気づいたかもしれません。つまり、例えば烏龍茶や紅茶を淹れるための急須は、注ぎ口と一直線に後ろの持ち手が付いているのが一般的です。私は横持ちの急須(日本語では「横手急須」)に慣れて育ったので、なぜ急須がこの形になったのか疑問に思ったことはありませんでした。今日は、日本の家庭でよく見かける横持ちの急須について、その背景と歴史を少しお話ししたいと思います。 要約すると、急須とは茶葉を入れ、熱湯を注いでお茶を淹れるための道具です。日本の急須には様々な種類があり( 日本の急須の4種類についてはこちらの湯呑みの記事をご覧ください)、例えば宝瓶(玉露など、低温のお湯を必要とするお茶を淹れる際によく使われる急須)などがありますが、最も一般的な日本の急須は、注ぎ口に対して垂直にハンドルが付いています。 常滑焼の名物急須のサイドハンドル付き。 ヤマキ医会 M73: 玉龍、80ml。 急須の起源 お茶と同様に、急須の起源は隣国中国にあります。詳しく言うと、その起源は宋代(960~1279年)に遡る、お酒を温めるための「急須(きふす)」と呼ばれる壺にあります。さらに、側面に取っ手が付いた「急焼(きぷしゅ)」という壺もあり、こちらは水を温めるために使われていました。私が読んだ興味深い事実ですが、長崎県、福岡県、埼玉県(つまり主要なお茶の産地)の一部の地域では、今日でも「急須」は「ぎびしょ」(中国語の「きぶしょう」に由来)と呼ばれることが多く、特に年配の世代ではそう呼ばれているのではないかと思います。 急須がお茶専用の急須へと進化した経緯 中国から伝わった横持ちの急須は、水やお酒を温めるだけでなく、お粥や薬草の煎じ薬など、様々な用途で使われていました。しかし、このタイプの急須が日本に伝わったのは江戸時代(1603~1867年)で、 ちょうど蒸し茶が定着し、お湯でお茶を淹れるのが主流になり始めた頃でした。 このように、急須はまさに日本茶を淹れるのに完璧な道具として、理想的な時期に日本に伝わりました。当時、お湯を沸かす道具としては、土瓶(どびん)、そして裏蓋付きのやかん(やかん)といった既存の道具がありました。これらの鍋は大量の水を入れることができ、お茶を淹れるのには通常必要ありませんでした。そのため、急須はお茶を淹れるのに最適な道具として自然に選ばれたのです。 文字通り「手の平で急須を握る」土瓶の一例: 南渓陶器のどんぐり型萬古焼土瓶(木製ハンドル付き) 、430ml。 売茶筅が急須の使用を広めた 横柄急須が日本に広まったのは、遊牧民のように茶を淹れて売っていたことから「茶売り老」と呼ばれた売茶翁のおかげであると言われています。 売茶翁が京都を旅し始めた当時(1730年代頃)、お茶は庶民が飲んだり共有したりするものではなく、上流階級の間では贅沢品とされていました。抹茶も、お茶を飲むための一般的な手段でした。しかし、売茶翁は出家生活(若い頃は禅の修行に励んでいた)で茶葉の点て方を学んでおり、煎茶風のお茶を点てながら旅をしていました。61歳(1735年)の時には、京都の名所鴨川のほとりに通仙亭という最初の茶室を構えました。 茶道具一式を竹に載せて持ち歩いていた売茶翁(左図: 伊藤若冲筆「売茶翁図」参照)は、横持ちの急須を大変愛用していたと言われています。彼は茶道具を携えて旅をし、お茶を売りながら、同時に仏教の教えを広めていきました。そのため、売茶翁は日本に急須を普及させた中心人物とみなされている。 注目すべきは、売茶翁が持ち歩き、茶を点てる際に使用した茶道具はすべて中国から輸入されたものであることです。当時、中国製の茶道具は非常に高価であったため、国産の茶器が作られるようになりました。また、お茶を淹れやすくする茶漉しも普及しました。これが、急須が日本茶に取り入れられるようになった始まりでした。 現在の急須とその先 このように、横持ちの急須の歴史は比較的分かりやすい。しかし、急須の機能や形状が歴史を通じてどのように進化し、現在の形になったのかを知ることは興味深い。現在、中国では横持ちの急須はほとんど生産されていない。一方、日本の急須はその独特な形状から注目を集め、中国に逆輸入された。横持ちの急須は日本の多くの家庭で長く親しまれてきたが、若い世代は急須で茶葉をいれるよりも、ペットボトルなどより手軽にお茶を飲む傾向があり、静岡大学の中村順之氏をはじめとする研究者は「急須離れ」という言葉を提唱している。なぜなら、私は急須を家庭の必需品として捉え、「茶の間」(お茶を淹れ、浸し、盛り付け、飲むという複雑で社会的なプロセス)を育むものとして捉えているからだ。 )と繋がりを考えると、急須が日本文化から徐々に消えていっているのではないかと考えると、少し気が滅入ります。お茶の楽しみ方が変化する中で、急須はどのように進化していくのでしょうか? 今はただ、その存在に感謝するだけだ。ここに、目の前に… うちのネコブーケ、茶の間に参戦中!お気に入りの急須はありますか? 注目の画像:左利きの方のために特別に作られた横持ちの急須: 小泉左利き用黒常滑焼急須...

  • Tea Farming during the Pandemic - Yunomi.life

    パンデミック中の茶栽培

    世界的なパンデミックは、自転車やコンピューターチップなど、私たちの日常生活やサプライチェーンに多大な影響を及ぼし続けています。しかし、国内外で日本茶の生産と消費にどのような影響を与えているか、改めて考えたことはありますか?私のようにお茶をよく飲む方にとっては、家にいる時間が増えたことで、日本茶を楽​​しむ機会が増えたのではないでしょうか。今日は、新型コロナウイルス感染症が日本の茶業界に及ぼした影響と、それが今もなおどのように影響を及ぼしているかについて少し触れたいと思います。国内外の主な動向を取り上げ、2021年の秋を迎えた日本の茶農家の取り組みについて、いくつかご紹介します。秋といえば、温かいお茶をゆっくりと楽しめる季節になってきましたね! 富澤茶園のティーショップ「グリーンティーラボ」より、2021年10月10日撮影。 茶の間でひと休み 京都府和束町の茶農家、上島さんへのインタビューを読んだ方は、日本の「茶の間」という概念をすでにご存知かもしれません。上島さんはこう語ってくれました。「茶の間とは、お茶を淹れ、淹れて、出し、飲むまでの過程のことです。日本語には『間』という言葉があります。お茶を淹れる『間』と、コミュニケーションの『間』…つまり、茶の間とは、客を家に招き、目の前でお茶を点てることなのです。」 端的に言えば、それはくつろいだ交流の場を生み出す、一種のおもてなしと言えるかもしれません。とはいえ、日本においてお茶はコミュニケーションツールとして重要な役割を果たしています。パンデミック下では、ソーシャルディスタンスやステイホームの取り組みにより、一部の家庭ではお茶がより多く飲まれていたかもしれませんが、社交の場や集まりが激減したことで、他の空間でのお茶の消費量は減少しました。さらに、企業や事業者が来客に出すお茶の量や贈答用のお茶の量が激減し、お茶業界に大きな影響を及ぼしています。 意外に思われるかもしれませんが、日本においてお茶業界に大きな影響を与えた主要なサービスの一つが葬儀です。パンデミック以前は、主要な茶産地の高品質なお茶が、葬儀のお礼としてよく購入されていました。日本では、葬儀の供え物に対する感謝の気持ちとして、遺族から参列者に贈り物が贈られます。お茶はこうした一般的な贈り物の一つです。しかし、パンデミックによって葬儀の規模が縮小され、これらの贈り物としてのお茶の売上が減少しました。 それでも、お茶関連のすべてが衰退しているわけではないようです。調査によると、特に若い世代(18~29歳)では、パンデミックの影響で茶葉の消費量が26%増加したことが明らかになっています。これは、最近の日本ではペットボトル入りのお茶に頼りがち(つまり、急須で淹れたお茶を楽しむ代わりに)なことを考えると、少し安心できる点です。つまり、茶の間は家庭以外では減少しているかもしれませんが、特に若い世代の間では、家庭でより多く楽しまれてきたのかもしれません。 日本の茶生産の衰退 パンデミックが茶産業、ひいては茶栽培全般に及ぼした影響は、農林水産省(MAFF)の統計データにも反映されています。2019年と比較すると、2020年の荒茶(荒茶)の生産量は全国で15%減少しました。全体的に、収穫時期を問わず減少傾向が見られました(下図参照)。さらに、MAFFが今年実施した最新の調査では、2021年も生産量は回復していないことが示されました。 もちろん、パンデミックに関連したいくつかの要因は、日本の茶業界全体の傾向の中で生じていることも認識する必要があります。例えば、いくつかの茶農家へのインタビューでも触れてきたように、茶農家の高齢化は明らかに大きな懸念事項です。2000年には、65歳以上の茶農家の割合はすでに49%でしたが、20年後(2020年)には、この割合は62%にまで増加しています。茶農家の高齢化と並行して、茶畑の耕作地は減少し続け、茶園の放棄も続いています。 不透明な茶産業の先行きを受け、自治体や団体は日本茶への需要と関心を高めるため、様々な支援策を打ち出している。例えば、国内外の観光客が訪れる京都府を代表する茶産地、和束町では、2021年2月、地元の一般社団法人「えん―TRANCEわづか」が、パンデミックの影響で売上が落ち込み、和束町の茶農家が保管していた煎茶ティーバッグ1,750個を購入し、地域住民に無償配布した。同団体は農林水産省の補助金を活用し、荒茶5,800kgを購入。購入後、全国に配布し、自国の和束茶のプロモーションに役立てている。国内外の観光客の激減(土産物やお茶関連ツアーの売上減少にもつながっている)に見舞われた主要茶産地でも、同様の取り組みが広がっている。例えば、おそらく最も有名な茶産地である静岡では、県が生産者に対し、新商品開発に500万円、販路開拓に300万円の補助金制度を設けました。その結果、茶葉を使ったスパークリング飲料から茶のアロマ製品まで、26の商品がこの制度の対象に選ばれました(9月6日現在)。 希望に満ちた国際的な動向 日本茶の輸出は2016年以降、緩やかながらも着実に増加しており、パンデミックの影響もあって輸出量はさらに増加し​​ています(概ね10年間で倍増しています)。この傾向は、健康に良いとされる日本食の人気が高まっていることが主な要因です(注:日本茶輸出上位5カ国のうち、37%が米国に輸出されています)。 しかし、この上昇傾向を継続させるため、コロナ禍後も日本茶の普及促進を継続できるよう、現在多くの取り組みが進められています。例えば、オンラインプラットフォームを通じて多言語で日本茶に関する啓発イベントを開催したり、シングルオリジンやオーガニックティーなど、海外市場により適した、需要の高い商品を開発したりするなど、様々な取り組みが進められています。 茶農家に刺激を与える 以上が、パンデミックが日本の茶業に与えた影響の全体像です。過去2年間の出来事は、毎日が明るく晴れやかなわけではないことを改めて思い起こさせてくれますが、Yunomiの茶農家の方々に目を向けると、四季折々に変化する茶樹と、皆が美しく調和しているように見えます。ここでは、Yunomiの茶農家の方々の最近の様子をご紹介します。 大武部茶園(京都府和束町) 京都府の茶畑、和束町では、日本政府の緊急事態宣言を受けてほとんどのレストランが閉まっているようですが、おぶぶ茶園では先日、秋の彼岸にちなんでささやかな茶摘みイベントを開催しました(イベントレポートはおぶぶ茶園のブログでご覧いただけます!)。参加者は茶摘みの実習だけでなく、美味しい秋のお弁当を味わい、手摘みした茶葉で天ぷらを作り、摘んだ茶葉でお茶を点てる体験もしました。とても素敵な体験でした! 右から左へ。(1)摘みたての茶葉を使った天ぷら。(2)茶葉を手揉みする工程。写真提供: 京都おぶぶ茶園(2021年10月7日掲載)。 9月30日に緊急事態宣言が解除され、和束茶カフェを含む飲食店が再開し始めています。和束町に徐々に活気が戻ってくることを願っていますが、おぶぶのあっきーさんがいつも茶畑で元気に過ごしている姿を見るのは、本当に心強いです。 おぶぶブログでは、茶農家のあっきーさんが一生懸命ながらも楽しそうに働く姿が見られ、励まされること間違いなしです。写真はおぶぶ茶園より(2021年3月)。 備前屋(埼玉県日高市) お茶のいちょうか工程(萎凋工程)を専門とする備前屋の清水さんは、最近は品評会での審査に精を出しているそう!最近参加したのは第66回狭山茶コンクール。清水さんによると、第2部の手揉み部門には12点の作品が出品されたとのこと。すべて同じ茶葉(厳密に同じ方法で収穫されたもの)から手揉みされたものらしく、まるで茶揉みの技術を競う競技のようだったそうです。そして、埼玉県知事賞を授与されるのはたった1点だけだったそうです…。 清水さんは全体的な印象をどう受け止めたのでしょうか?同じ生葉を手揉みした場合でも、見た目だけでなく品質にも顕著な違いがあったと指摘しました。展示された茶葉はすべてハサミで摘まれたもの(つまり手摘みではない)でしたが、一般的な煎茶に比べて、葉が厚く、大きく、より上品な外観をしていることにも気づきました。これは、機械で摘まれた茶葉では実現できない、印象的な形状です。 第66回狭山茶コンテストの様子。撮影:備前屋(2021年9月26日)。 梶原茶園(熊本県芦北市) 釜炒り茶が絶品の梶原さん。最近、イノシシの被害で茶畑が荒廃したという報告がありましたが、茶園の人々は懸命に作業を続けています。ちょうど秋の収穫を迎えたばかりのべにふうきです。梶原さんはお茶に加え、熊本県芦北町にある拠点で稲作も行っており、今は稲刈りで大忙しです。 上から下へ:1) 秋のべにふうき収穫、2)...