日本の代表的なお茶、ほうじ茶の歴史
今日は、他の日本茶と比べると比較的新しいほうじ茶の歴史について触れたいと思います。 ほうじ茶の製造は、1920年代、昭和初期( 1926~1989年)に始まりました。この時代は急速な変化と工業化が起こりましたが、農村経済の一部は実際には苦境に立たされ、特にお茶の売れ行きは低迷し、生産者や商人は大量の余剰茶を抱えることになりました(世界規模でのお茶の歴史について詳しく知りたい方は、 こちらの以前の記事をご覧ください)。当時は真空包装や大型冷蔵庫などの設備が不足していたため、お茶の鮮度を保つことはさらに困難でした。 物語はこう続きます。この厳しい時代、ある茶商が京都大学に残った緑茶を持ち込み、賢明な助言を求めました。そこで彼は、その緑茶を再び乾燥させ、焙煎してみることを勧められました。それまで、茶農家や茶商は、茶の木( ツバキ)の茎や小枝、柄といった残った部分をそのまま捨てていました。しかし、この助言を受けて、残った緑茶を炭火で焙煎することにしました。そして驚くべきことに、今私たちがよく知っている、香り高く土っぽい赤褐色のほうじ茶が生まれたのです。 京都でのこの嬉しい発見の後、お茶の消費は全国的に拡大し、焙じ茶は茶樹全体を有効活用する手段として、瞬く間に日本中に広まりました。ほうじ茶はそれより以前、明治時代( 1868年~1912年)と 大正時代(1912年~1926年)に存在していたという説もあります。日本には様々な民間茶が存在していたという証拠はあるものの、明確にほうじ茶と呼べるお茶に関する歴史的記録は見つかっておらず、そのためほうじ茶の起源は未だ謎に包まれています。 茎ほうじ茶の名品「加賀棒茶」 しかしながら、日本のほうじ茶の中でも際立つ、石川県加賀産の棒茶(茎ほうじ茶または茎茶)には、重要な歴史的記録が存在します。棒茶は主に茶樹の茎を焙煎して作られます。以前のブログ記事(「 ほうじ茶はなぜカフェインが少ないのか」)で、棒茶、つまり茶樹の茎にカフェイン含有量が最も少ないことを説明しました。このタイプのほうじ茶は、特に石川県加賀産が起源と言われています。現在、石川県の茶の生産量は非常に少ないため、この言葉に驚かれるかもしれません。 江戸時代(1603年 - 1867年)と明治時代(1868年 - 1912年)には、お茶は貴重で高価な輸出品となり、茶の茎はすべて捨てられていました。1902年、茶商の林屋新兵衛は、お茶の活用できない部分の活用方法を模索し、茎を焙じて棒茶を作ることにしました。これが棒茶の始まりです。新兵衛のおかげで、お茶は庶民にも親しまれるようになり、周辺地域にも急速に広まりました。今日では、棒茶といえば石川県を思い浮かべる人が多いでしょう。このお茶は昭和天皇にも献上されており、銘茶、最高級の日本茶として認められています。(注:今日では、加賀棒茶は宇治茶と同じようにブランド化されています。日本では、自動販売機で加賀棒茶のほうじ茶がお茶の選択肢の一つとして売られているのを見かけることもあるでしょう。) ほうじ茶の未来 ほうじ茶は誕生当初から、今では日本人に親しまれ、愛される飲み物へと進化を遂げてきました。抹茶や緑茶製品と同様に、日本でも近年、ほうじ茶を使った商品が急増しています。焼き菓子( 幸子さんのほうじ茶ロールケーキなど)、ほうじ茶アイスクリーム、ラテ、そして美味しいほうじ茶ソースをかけたソフトクリームなど、実に様々な商品があります。もしかしたら、海外でもほうじ茶がより人気を博し、存在感を増す日が来るかもしれませんね。さて、どうなることやら…。 日本茶の湯呑み一覧と用語より: *棒茶- 棒茶(ぼうちゃ)または棒茶(ぼうちゃ、文字通り「棒茶」)は、焙煎した茎茶(くきちゃ)の別名で、茎茶またはほうじ茶の一種とみなされます。使用される茎は通常より太く(大きく成熟した葉の中央の茎、または葉が付いている茎)、お茶に棒のような外観を与えます。茎ほうじ茶とも呼ばれます。 注目の画像:ほうじ茶と日本の伝統的なかりんとうスナック。写真提供:善香園茶園 ほうじ茶について他にご質問がございましたら、お気軽に下記にコメントやご質問を投稿してください。または、私(岸田萌絵)まで直接ご連絡ください:moe@yunomi.life